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展示案内

館内概要

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1展示室

縄文のむかしに語りかける
 高畠町の、日向、一の沢、大立、火箱岩(以上国史跡) ほかの洞窟には1万年以上もむかし、縄文草創期といわ れる時代から人々が暮らしていました。石器、土器など多 くの出土品から、厳しい自然の中で道具、器物などを作り生活を営んできた先人の優れた知恵と技を思うとき、そこ に長い高畠町の歴史の原点を見出だすことができます。


第2展示室

  祈りと願いをきざむ中世
 中世(鎌倉・室町時代)の高畠は、奥州藤原氏支配のあと、長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏らの武将が治めていました。町の東に連なる山々には、幾つかの山城址が残っています。また、里には、永仁の磨涯碑や資福寺跡など、多くの石造物や遺跡が見られます。その中世の息づかいを伝える安久津延年(国選択無形民俗文化財)還城薬物語断簡伊達晴宗安堵状板碑などを展示しています。

屋代郷百姓一統の気質
 高畠町一帯は、近世(江戸時代)においては屋代郷いわれた在郷の村々てした。その間は、米沢領、幕府直轄領(直轄支配、米沢領預地、大森役所扱いなと3分割支配)織田領(高畑村以下6か村)といった複雑な支配下にあり幾度かの嘆願行動の記録や義民伝承が残されています。百姓の在り様を、自らの立場から見た村方文書、日記などの古文書がそれを物語っています。    

高畠と明治のご一新
 新しい世の中への大衆の願い、期待がいわゆる「ご一新」てした。幕末の志士、高野長英、吉田松陰、雲井龍雄らが高畠に足を踏み入れています。億兆安撫国威宣揚の宸翰写太政官覚木札 切支丹禁札 地券 や学制発布直後の翻訳的教科書などを結ぴつけると、そこに高畠における明治のご一新にひとつの脈絡を見出すことができます。   
 

高畑織田藩の成立
 
明和4年(1767)織田信長の直系、上州小幡藩主信邦は山縣大弐事件に関わり羽州高畑へ国替えとなります。領地は、村山(10か村)高畑(6)信夫(3)の約2万石で陣屋は高畑におかれました。とき折りしも江戸中期後半から後 期へと商品流通経済に移行しつつあるさなか、重なる天災、飢餓により治世ままならず、やがて、天保2年(1831)陣屋は天童に移りました。 


第3展示室

高畠をえがいた人たち
 高畠をえがいた人として、吉田松陰 雲井龍雄 イサベラ バード 大橋乙羽 長谷川伸 戸川幸夫 井上ひさし そ れに画家 和田三造 萩生田真吉と、郷土出身の浜田広 介らがあげられ、哲学者堀秀彦は一時高畠に住んでいま した。江戸期には、郷土の俳人たちが結社をもち多くの 句集を編み、その流れを継いで栗田九宵子 武田抱子 降矢東郊がそれぞれ名を残しています。

  大谷地の米作り
 昭和30年代あたりまで、高畠深沼から南陽市にかけての、およそ1000haの泥炭層地帯では、腰までつかるような状態で米作りが行われていました。その後、乾田化と排水灌漑の工事が進み、現在のような美田に生まれ変わりました。足踏み揚水機や田下駄などが当時の苦労を偲ばせます。そのほか、千歯や手回し脱穀機、馬耕鋤など米作りの道具や「農家の炉端」を展示しています。

なつかしの高畠線
 明治20年代から30年代にかけて、高畠でも長谷川製糸ほか多くの製糸場が操業を始め、33年には奥羽線糠ノ目駅が開業しました。このような背景の中で、大正の末、高畠鉄道が誕生し、米、木材、乳製品、生糸、鉱石、 木炭、果物などを輸送し、地場産業の振興に寄与しました。また、人々の足としての役を担ってきましたが、多くの業績を残したその高畠線も昭和49年に50年余の歴史の幕を閉じました。  

 

 

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